昨年、あるきっかけで、自分が輪廻していることに気づいてしまった。
たとえて言うなら、ヘッセのシッダールタの最後のページと同じ内容が見えてしまった。
彼の友シッダールタの顔がもう見えなくなって、そのかわりにほかのたくさんの顔が見えた。たくさんの顔、百も千もの顔の長い列、流れる川が見えた。それが現れては消えたが、みんな同時にそこにあるように見えた。そのすべてが絶えず変り、新たになった。が、そのすべてがシッダールタであった。魚の顔、はてしもなく苦しそうに口をあけたコイの顔、目を曇らせて死にかかっている魚の顔が見えた。生まれたばかりの、赤く、しわだらけの、泣き出しそうにゆがんでいる顔が見えた。
-人殺しの顔が見えた。彼が刃物を人間の腹に突き刺すのが見えた。-同じ瞬間に、その犯罪人が縛られてひざまずき、刑吏に刀で首をはねられるのが見えた。出典:ヘッセ「シッダールタ」
これはたいへんなことになったと思った。
このままでは未来永劫、迷いの生を繰り返すことになる。
この事態への切実感は異常なほど高まり、1秒後には、身体の全細胞の情報をスキャンして、「解脱するしかない」という結論が導きだされた。0.5秒ぐらいだったかもしれない。走馬灯が駆け巡ったのだ。
近いのは、悟りという語感ではなく、解脱という語感だった。
解脱の方法は、仏教にしか説かれておらず、ぼくは、解脱へ至ることができるという瞑想への関心を高めることにした。
瞑想とマインドフルネスの違い
ひと口に瞑想と言っても、様々なやり方があるようである。そうした瞑想に関するテキストを読んでいると、たびたびマインドフルネスといった言葉が出てくる。
これまでもマインドフルネスという言葉は度々目にしていたのだが、瞑想に近い意味ぐらいだろうと思って気にすることはなかった。
しかし、解脱への切実感が高まると、こうした言葉もきっちりおさえておきたい気分になった。
ウィキペディアにはこう書かれている。
マインドフルネス(英: mindfulness)は、今現在において起こっている内面的な経験および外的な経験に注意を向ける心理的な過程である。瞑想およびその他の訓練を通じて開発することができる。
マインドフルネスの語義として、今この瞬間の自分の体験に注意を向けて、現実をあるがままに受け入れることであるとか、特別な形で、意図的に、評価や判断とは無縁に、注意を払うことであるといった説明がなされることもある。
マインドフルネス(mindfulness)という用語は、パーリ語のサティ(sati)の翻訳であり 、サティはいくつかの仏教の伝統における重要な要素である。近年の西洋におけるマインドフルネスの流行は、概してジョン・カバット・ジンによって起こされてきたと考えられている。
マインドフルネスとは、パーリ語のサティの翻訳とあるので「気づき」ということになる。
マインドフルネス瞑想とは
少し前のブルータスでも、禅(「みんなのZEN」)が特集されており、マインドフルネスについて触れているページがあった。
石川:マインドフルネスという言葉を作って広めた人は誰ですか?
川上:言葉を作ったのはジョン・カバット・ジンですね。それは1970年代後半のことですが、それをブランディングして、市民権を得るまでにしたのはチャディー・メン・タンであり、グーグルですよ。マインドフルネスを商品化したのはグーグルだというのが、僕の見解です。
出典:「禅とZENとマインドフルネス、その境界線とは。」(ブルータス「みんなのZEN」)
ブルータスを読んで解脱を目指そうというのも、無明を極めた感があるのだが、解脱へのはてしない道程ゆえに、あえてスタートラインを下げてみてもいいのかもしれない。
ところで、ウィキペディアとブルータスでも言及されるジョン・カバット・ジンとは誰なのか?
ジョン・カバット・ジン(英字:Jon Kabat-Zinn、1944年6月5日-)
マサチューセッツ大学医学大学院(英語版)教授・同大マインドフルネスセンターの創設所長。国際観音禅院(英語版)の崇山行願(英語版)に禅を師事し、ケンブリッジ禅センター(英語版)の創設メンバーとなった。仏教の指導者に修行法と教理を学んだ彼は、それを西洋科学と統合させた。彼は、人々がストレス、悩み事、痛み、病気に対応する手助けとして、マインドフルネス瞑想を教えた。
ここで、マインドフルネス瞑想という言葉が出てくる。マインドフルネス瞑想とは何であろうか。
彼は心と体の相互関係に注目して研究し、慢性的な痛みやストレス関係の病気を持った人々のためにマインドフルネスストレス低減法(MBSR)を開発して現場に応用し、現代の健康科学に著しい貢献をした。
1979年にストレス低減センターでマインドフルネスに基づいたマインドフルネスストレス低減法を教え始めた。マインドフルネスストレス低減法は、患者が瞬間瞬間に注意を向けることにより、ストレス、痛み、病気に対応することを助けるために、瞑想とハタ・ヨガを組み合わせた、8週間の心理療法である。マインドフルネス瞑想は、参加者が健康を達成できる力、及び適切なことを行うことを助ける。彼とその仲間は、特にストレス下で、および免疫系統で、脳内で瞬間瞬間に注意を向ける結果、それがどのように感情を処理するかを研究した。
調べてみて、マインドフルネスとマインドフルネス瞑想が違うことがわかった。マインドフルネスは「気づき」で、マインドフルネス瞑想は「気づきの瞑想」だ。
このエントリーのタイトルを「瞑想とマインドフルネス」としているが、言葉の意味を正確に知ると、まるで意味をなしていないことがわかる。あらゆる現象を細かく分析していくと、すべてが実体をなしていないを知る。それがブッダの方法論。自我に実体がないというのもそのようなことだ。
154 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。
出典:ブッダ「真理のことば」
とにかく、マインドフルネス瞑想というのはジョン・カバット・ジンにより始められた現代的なメディテーションぐらいの捉え方でいいのだろう。
ブルータスには、googleとマインドフルネスという記事もあった。
googleとマインドフルネス
出典:みんなのZEN。 — Brutus No. 840 試し読みと目次 | BRUTUS
マインドフルネス瞑想の効果に疑問符?
マインドフルネスで検索した記事に気になる内容があった。
「マインドフルネス瞑想のプログラムがほかの積極的治療(薬、運動、その他の行動療法)に勝る」というエビデンスは発見されなかった。
出典:マインドフルネスとは何か 定義と実践方法 ―「いま、ここ」に集中する - decinormal
マインドフルネスはどうやら魔法の杖でないばかりか、「他のいわゆる普通の病院の治療のほうが効果がある」という程度の、世の中にあまたあるメンタルケア方法のひとつに過ぎないようだ。やらないよりかはぼちぼちマシだが、だからといって病気が治るかというとそうではない、という程度なのだろう。
マインドフルネス瞑想も商業化され、パッケージ化されると、こうした認識も生まれる。
なんとなくではあるが、マインドフルネスの方面では、解脱することはできないということが分かった。
やはり、解脱を求めるのであれば、東洋方面ということになるのだろう。
そんなことを思いながら、いよいよ座禅をしてみなければならないと思った。
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