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南伝 相応部経典22 / 苦しみをなくす方法(2)の補足

「苦しみをなくす方法(2)」の補足です。 

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 このエントリーに引用された経は省略された内容なので、省略されていない形を掲載してみたいと思います。

 

経を素読する意味というのは、ブッダの考えをそのまま脳にインストールすることですが、人間の脳というのは、ブッダの考えとは逆の挙動をしようとする傾向がありますので、マインドフルネスを実践しようとする人は、折に触れて絶えず経をインストールする必要があります。ろくでもない妄想で頭を満たすよりは、真理で頭を満たした方がいいという言い方もできます。

この経を覚えて頭の中で唱えるという瞑想は効果的です。無常随念・苦随念・無我随念ということになります。ブッダが弟子たちを極めてロジカルに解脱に導こうと説かれた内容になります。

 

82 こはわがもの(南伝 相応部経典22、150、我所/漢訳 雑阿含経7、3、我々所)

かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は、比丘たちに告げて仰せられた。


「比丘たちよ、いったい、何があるによって、何を取するによって、また、何に執着するによって、<こはわが所有(もの)である、こは我である、こはわが本体である>と見るのであろうか」
「大徳よ、世尊は、まことに、我らの法の根本にまします。願わくば、そのことを説きたまえ」


「比丘たちよ、それは、色(肉体)があるによって、色を取するによって、また、色に執着するによって、<こはわが所有(もの)である、こは我である、こはわが本体である>と見るのである。
また、受(感覚)があるによって、受を取するによって、また、受に執着するによって、<こはわが所有(もの)である、こは我である、こはわが本体である>と見るのである。

想(表象)があるによって、想を取するによって、また、想に執着するによって、<こはわが所有(もの)である、こは我である、こはわが本体である>と見るのである。

行(意志)があるによって、行を取するによって、また、行に執着するによって、<こはわが所有(もの)である、こは我である、こはわが本体である>と見るのである。
あるいはまた、識(意識)があるによって、識(意識)を取するによって、また、識に執着するによって、<こはわが所有である、こは我である、こはわが本体である>と見るのである。」

 

「比丘たちよ、汝らはいかに思うであろうか。色は常在であろうか、無常であろうか」
「大徳よ、無常であります」
「無常であるならば、それは、苦であろうか、楽であろうか」
「大徳よ、苦であります」

 

「では、受は常在であろうか、無常であろうか」
「大徳よ、無常であります」
「無常であるならば、それは、苦であろうか、楽であろうか」
「大徳よ、苦であります」

 

「想は常在であろうか、無常であろうか」
「大徳よ、無常であります」
「無常であるならば、それは、苦であろうか、楽であろうか」
「大徳よ、苦であります」

 

「行は常在であろうか、無常であろうか」
「大徳よ、無常であります」
「無常であるならば、それは、苦であろうか、楽であろうか」
「大徳よ、苦であります」


「識は常在であろうか、無常であろうか」
「大徳よ、無常であります」
「無常であるならば、それは苦であろうか、楽であろうか」
「大徳よ、苦であります」


「無常にして苦なる、変り移ろうものを、もし取することなく、執着することなくとも、なお、<こはわが所有である、こは我である、こはわが本体である>と見るべきであろうか」
「大徳よ、そうではございません」


「比丘たちよ、そのように見て、色において厭い離れ、受において厭い離れ、想において厭い離れ、行において厭い離れ、また識において厭い離れるがよい。厭い離るれば貪りを離れる。貪りを離るれば解脱する。

解脱すれば、解脱したとの自覚が生じて、<わが迷いの生涯はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえは、もはや迷いの生涯を繰返すことはないであろう>と知るにいたるのである」


増谷文雄「阿含経典(二巻)」(筑摩書房)

 

 83 こはわが我(南伝 相応部経典22、151、我/漢訳 雑阿含経7、12、有我)

かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は、比丘たちに告げて仰せられた。


「比丘たちよ、いったい、何があるによって、何を取するによって、また、何に執着するによって、<こは我である、こは世間である、死後の我はかくあらん。常恒にして永住する変易なきものがある>と、そのような見解を起すのであろうか」
「大徳よ、世尊はわれらの法の根本にまします。願わくば、そのことを説きたまえ」


「比丘たちよ、それは、色(肉体)があるによって、色を取するによって、また、色に執着するによって、<こは我である、こは世間である、死後の我はかくあらん。常恒にして永住する変易なきものがある>と、そのような見解を起すのである。
また、受(感覚)があるによって、受を取するによって、また、受に執着するによって、<こは我である、こは世間である、死後の我はかくあらん。常恒にして永住する変易なきものがある>と、そのような見解を起すのである。

想(表象)があるによって、想を取するによって、また、想に執着するによって、<こは我である、こは世間である、死後の我はかくあらん。常恒にして永住する変易なきものがある>と、そのような見解を起すのである。

行(意志)があるによって、行を取するによって、また、行に執着するによって、<こは我である、こは世間である、死後の我はかくあらん。常恒にして永住する変易なきものがある>と、そのような見解を起すのである。
あるいはまた、識(意識)があるにより、識(意識)を取するにより、また、識に執着するによって、<こは我である、こは世間である、死後の我はかくあらん。常恒にして永住する変易なきものがある>と、そのような見解を起すのである。」

 

「比丘たちよ、汝らはいかに思うであろうか。色は常在であろうか、無常であろうか」
「大徳よ、無常であります」
「無常であるならば、それは、苦であろうか、楽であろうか」
「大徳よ、苦であります」


「では、受は常在であろうか、無常であろうか」
「大徳よ、無常であります」
「無常であるならば、それは、苦であろうか、楽であろうか」
「大徳よ、苦であります」

 

「想は常在であろうか、無常であろうか」
「大徳よ、無常であります」
「無常であるならば、それは、苦であろうか、楽であろうか」
「大徳よ、苦であります」

 

「行は常在であろうか、無常であろうか」
「大徳よ、無常であります」
「無常であるならば、それは、苦であろうか、楽であろうか」
「大徳よ、苦であります」

 

「識は常在であろうか、無常であろうか」
「大徳よ、無常であります」
「無常であるならば、それは苦であろうか、楽であろうか」
「大徳よ、苦であります」


「無常にして苦なる、変り移ろうものを、取せず、執着せずとも、なお、<こは我である、こは世間である、死後の我はかくあらん。常恒にして永住する変易なきものがある>と、そのような見解を起すであろうか」
「大徳よ、そうではございません」
「比丘たちよ、そのように見て、色において厭い離れ、受において厭い離れ、想において厭い離れ、行において厭い離れ、また識において厭い離れるがよろしい。厭い離るれば貪りを離れる。貪りを離るれば解脱する。

解脱すれば、解脱したとの自覚が生じて、<わが迷いの生涯はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえは、もはや迷いの生涯を繰返すことはあらじ>と知るにいたるのである」


増谷文雄「阿含経典(二巻)」(筑摩書房)

 

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