12月に入り、法事が続いた。彼らの人生と重なる幾分かの時間を思い出した。彼らの笑った顔しか思い浮かばない。違った表情を思い出そうとすればできるのだけれども、なぜ、彼らの笑った顔しか思い浮かばないのか考えてみた。
ジョルジュ・バタイユ。岡本太郎が畏敬し続けた思想家。バタイユの著作は難解であり、理解するのは難しい。しかし、至高の存在であることについて、バタイユが書いた内容を良く覚えている。
さて、ヘミングウェイがそこで表現している可能性はたいへん注目すべきものだと思われます。それは沈黙する術を知ること、すなわち一切に耐えうるという可能性であり、結局のところ唯一好運だけがもたらす可能性の中に生きながら、想定しうるあらゆる不運をものともせず支配的な立場に身をおく術を知るということです。ジョルジュ・バタイユ『非-知 閉じざる思考』(p96)
ヘミングウェイの『老人と海』の内容に触れた「非-知、笑い、涙」という講演録の一節。『老人と海』の老人は何時間も大カジキと死闘を続け、最終的に釣り上げるのだが、カジキが大きすぎて、老人の小船に乗せることができない。仕方なくカジキを引いて帰るのだが、港にたどり着くまでにサメに喰われてしまうという話である。
老人にとっては、悲劇的な状況で話は終わる。バタイユは、そうした状況にも関わらず、老人が、自分の人生に対し一貫して支配的な立場であり、至高の存在であることに着目する。
普通は、負けたり、惨めであったり、落ちぶれた状況は、その反対の状況から見れば、劣った状況と思われがちである。しかし、バタイユはそうではないと言う。自分が自分に対して、一貫して支配的であれば、それは至高の存在である。
レクター博士に人気があるのも、犯罪者ということではなく、刑務所に閉じ込めながらも、自分の人生に対して一貫して支配的であり続けるからだと思う。
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ホイットニー・ヒューストンの『The Greatest Love of All』にも、似たテイストの歌詞がある。
I decided long ago
Never to walk in anyone's shadow
If I fail if I succeed
At least I will live as I believe
No matter what they take from me
They can't take away my dignity
ずっと前に決めた
誰の影も歩かないことを
失敗しようと成功しようと
信じるところを生きる
彼らが私から何を奪っても
私の尊厳だけは奪うことができない
置かれる状況がどうであろうと、尊厳だけは奪うことができず、至高の存在であり続けることが歌われている。バタイユが着目した『老人と海』の老人が、自分の人生に対して支配的な立場であり続けたことに重なる。
岡本太郎は、バタイユが、置かれた時代状況に関係なく、一貫して至高の存在であり続けることに痺れた。
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12月に入って、置かれた状況に関わらず、自分の人生に対して、一貫して支配的であり、至高の存在であり続けた人たちについて考えている。
昔感動した文章であっても、年数が経って読み返してみると、色褪せて見えることがある。バタイユの『非-知』の一節は、はじめて読んだ時とまったく同じ意味であり続けている。これからも、まったく同じ意味であり続けるだろう。
- 作者: ジョルジュバタイユ,Georges Bataille,西谷修
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