解脱は無理だったが、苦しみをなくす方法はある程度わかったのでシェアしてみたい。
正確には、「苦しみをなくす」というよりも「苦しみを少なくする」という表現になる。「解脱」したわけではないので、普通に暮らしていると何かに「執着」し「苦しみ」が生じる。その度に、苦しみをなくす方法に立ち返ることになる。
シェアしてみたいと簡単に書いてしまったが、説明の仕方が難しい。説明が簡単であれば、仏教にこれだけの宗派はなかっただろう。
まずは、仏教の最低限度の知識は抑える必要がある。そこから入ろう。
縁起の法則
これあればこれあり、これ生ずればこれ生ず
増谷文雄「釈尊のさとり」
これがあるからこれがある、これが生ずるからこれ生ずるといったことである。この内容がいわゆるブッダの説いた「縁起」である。これだけで悟ってしまう人もいるという。これを引っくり返す。
縁滅の法則
これなければこれなし、これ滅すればこれ滅す
(同上)
これがあるから苦しみがある、これがなければ苦しみはない。極論を言ってしまうと、この内容が「苦しみをなくす方法」である。だから、後はこの内容の細かな部分の完成度を高めて行く作業になる。「これ」、「ある」、「なし」、「苦しみ」のひとつひとつを突き詰める作業になる。
十二縁起
この縁起の法則が、有名な十二縁起に発展する。これも抑えておいた方がいいだろう。意味は、とりあえずは字面程度の理解で。
無明によりて行がある。行によりて識がある。識によりて名色がある。名色によりて六処がある。六処によりて触がある。触によりて受がある。受によりて愛がある。愛によりて取がある。取によりて有がある。有によりて生がある。生によりて老死があり、愁・悲・苦・憂・悩がある。このすべての苦の生起はかくのごとくである。
増谷文雄「釈尊のさとり」
縁起の法則から十二縁起に至る過程には、もう少し簡単な法則があったのではないかと言われているが、おそらくそんな感じなのだろう。また、これを引っくり返す。
縁滅の法則
無明の滅によりて行滅す。行の滅によりて識滅す。識の滅によりて名色滅す。名色の滅によりて六処滅す。六処の滅によりて触滅す。触の滅によりて受滅す。受の滅によりて愛滅す。愛の滅によりて取滅す。取の滅によりて有滅す。有が滅すれば生が滅す。生が滅すれば老死が滅し、愁・悲・苦・憂・悩が滅する。このすべての苦の滅はかくのごとくである。
(同上)
縁滅の法則を「苦しみをなくす方法」に具体化している。 あらゆる場面で苦は生じるので、こちらの法則にリアリティがある。
しかし、雑念と煩悩が断ち難き凡夫には、これらの法則を覚えるだけでは片手落ちである。心には執着とか渇愛とかの貪りの機能があるからである。だから「無常・苦・非我」を知ることで対象から離れることが必要になる。
無常・苦・非我
277 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
278「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
279「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
中村元訳「真理のことば・感興のことば」
四諦
最後は、苦・集・滅・道のいわゆる四諦である。以上のポイントをおさえると四諦の理解も簡単なのではないかと思う。
(苦)
比丘たちよ、苦の聖諦とはこれである。いわく、生は苦である。老は苦である。病は苦である。死は苦である。愁え・悲しみ・苦しみ・憂え・悩みは苦である。怨憎するものに会うは苦である。愛するものと別離するは苦である。求めて得ざるは苦である。総じていえば、この人間の存在を構成するものはすべて苦である。
(集)
比丘たちよ、苦の生起についての聖諦とはこれである。いわく、迷いの生涯を引き起こし、喜びと貪りを伴い、あれへこれへと絡まりつく渇愛がそれである。すなわち、欲の渇愛・有の渇愛・無有の渇愛がそれである。
(滅)
比丘たちよ、苦の滅尽についての聖諦はこうである。いわく、その渇愛をあますところなく離れ滅して、捨て去り、振り切り、解脱して、執着なきにいたるのである。
(道)
比丘たちよ、苦の滅尽にいたる道についての聖諦はこうである。いわく、聖なる八支の道である。すなわち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
増谷文雄「釈尊のさとり」
以上の内容は、とりあえず、意味が分かっても分からなくても、暗誦できるぐらいまで記憶に留めるといいだろう。
参照図書
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