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僕が村上春樹の新刊「職業としての小説家」を買った理由と感想 / 河合隼雄先生の思い出

職業としての小説家

村上春樹氏の新刊が発売された。自伝的エッセイ「職業としての小説家」。本の帯コピー。

誰のために書くのか、どのように書くのか、そしてなぜ小説を書き続けるのか、小説を書くための強い心とは。

 

この本を買った理由

この新刊を買ったのは、僕が小説家志望ということではなく、村上春樹が河合隼雄に会い行った最後の章が読みたかったからだ。自伝的エッセイの最終章に河合隼雄が配されているのが気になったのだ。

ちょっと失礼なのかもしれないけど、小説作法のこういった話は、ハルキストもとい村上主義者はこれまでにテキストで慣れ親しんできたからね。

 

僕は河合隼雄に会いに行った

この本を買った理由をもう少し詳しく説明すると、それは個人的な記憶にあるんだ。

大学の一般教養の授業だったと思うだけど河合隼雄の演習みたいなのが特別に一回あってそれに出たら出席者がたったの三人だった。その時は河合隼雄は名前ぐらいしか知らなかったんだけども今にして思えばなんと豪華な。

 演習形式だからやっぱり河合隼雄となんか話すんだね。何の授業だったかも覚えていない。心理学かなんかだったのかな。僕は後ろの方の席に座っていたので答えるのは最後だったんだけど自分の番が来てマルセル・プルーストがどうのこうの話したと思う。河合隼雄はそれにすぐに答えるわけではなくしばらく考えこんでしまったんだね。

かなり長いこと考えこんでから何かまったく噛みあっていないような感想のようなひと言を発したんだ。はじめこのひと病んでるのかなと思ったんだけど深く考えこんだあとでちょっと明るくなごんだように何か言ったんだね。わりとライトに。予想されるような答えでもなかったし、真意も汲み取れなかった。

その時、何かほっとしたというかすごく安心したんだ。ああ、やっぱりそうなんだと。ひとは本当には分かりあえないことが分かったというか。だから分かりあおうと懸命に努力するんだね。それが分かった。金八先生みたいな結論だ。その安心感でその後エッジの上を歩きながらどちら側の深みにも落ちずにすんだ(と思っている)。

同時に、この人は本当にひとの話をよく聞く人なんだなと思った。こういう人がいるんだなと。ひとの話を聞く人は良くいると言われてるけど、そういう人の中でも次元違いという感じがしたんだ。

出席していたあとの二人と河合隼雄とのやりとりなんか全然わからないよ。当然だよね。自分のもわからないんだから。その時は、ちょっとおおげさだけど、教室が宇宙空間みたいに感じた。広大な宇宙空間に投げだされた四人というか。それぞれバラバラに投げ出されているんだけども、お互いの命の振動(パルス)を微かに信号として感じとりあっているというか。そのぐらいのつながり。だけど他の二人にとっても今までに受けたベストな授業だったのではないかと思う。具体的な会話の内容は何ひとつ覚えていないんだけど。笑っちゃうよね。

この通り、僕は河合隼雄の印象を明確な言葉にすることはできない。

 

第12回 物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出

村上春樹と河合隼雄との共著が出ているのは知っていたんだけど読んだことはなかった。だけど、新刊の目次を見て村上春樹が河合隼雄をどのように言葉にしているのか知りたくなったんだ。それがこの本を買った理由。自伝的エッセイの最終章が河合隼雄に会いに行く話なんだから。読まないわけにはいかない。

 

で、読んでみた 感想

どれどれ。がーん。はじめの一行で僕の中で長年カタチにならないもやもやっとした気持ちが明確に表現されていた。

 僕は誰かのことを「**先生」と呼ぶことってまずないんですが、河合隼雄さんだけは、いつもつい「河合先生」と言ってしまいます。「河合さん」とはあまり言いません。なんでだろうとよく不思議に思うんですが、いまだに自然に「河合先生」という呼び方になってしまいます。


10ページぐらいの分量だけれども、深くゆっくり読んだ。読み終わって河合隼雄があの時なにをしたのか理解できた。心理療法家としてあの短い時間で僕の疑念を払拭していた。村上主義的に言うならば僕の魂の暗い奥底を救済していた。新刊から少し引用。

 

 そしてこのとき、河合先生は自分からほどんど発言をされませんでした。ただ僕の話をじっと聞き、それなりの相づちをうち、そうしながら目の奥で何かを考えておられるようだった。僕もだいたいがあまり積極的に話をする方ではないので、会話というよりは総じて沈黙をの方が多くを占めていたような気がするんですが、そういうことも気にされていない様子でした。 

 

僕らが会って話をして、でも何を話したかほとんど覚えていないと、さっき申し上げたわけですが、実を言えば、それは本当はどうでもいいことなんじゃないかと思っているんです。そこにあった一番大事なものは、話の内容よりはむしろ、我々がそこで何かを共有していたという「物理的な実感」だったという気がするからです。

 

 僕がそういう共感を抱くことができた相手は、それまで河合先生以外には一人もいなかったし、実を言えば今でも一人もいません。「物語」という言葉は近年よく口にされるようになりました。しかし僕が「物語」という言葉を口にするとき、それをそのままのかたちで - 僕が考えるままのかたちで - 物理的に総合的に受け止めてくれた人は河合先生以外にはいなかった。

 

僕は深く満足して村上春樹の新刊を閉じた。春樹氏だけにしか経験できなかったことが書かれていた。前の方で書いた僕の個人的な経験は、よくわからないことが書いてあると思うんだけど、春樹氏の書いた最終章を読んだ人には何か伝わるものがあるのではないかと思う。 

僕の経験は極めて刹那のものだったんだけども、春樹氏の文章を通して、春樹氏と河合先生だけが共有した「物語というコンセプト」をうかがい知ることができる。

それが村上春樹の言う物語の共有なんだと思う。

 

  我々は何を共有していたか? ひとことで言えば、おそらく物語というコンセプトだったと思います。物語というのはつまり人の魂の奥底にあるものです。人の魂の奥底にあるべきものです。それは魂のいちばん深いところにあるからこそ、人と人とを根元でつなぎ合わせられるものなのです。

 

村上春樹「職業としての小説家」

 

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

 

 「第12回」と「あとがき」だけを読んで、この感想を書いてしまったんですが、次に読みたいのは「第8回 学校について」。この本は、ひとつの章をゆっくり考えながら読みすすめる種類の本ではないかと思う。だから全体の感想というのは簡単ではない。ピュアな原型をとどめる「村上春樹という物語の共有」なので。

 

 河合先生の著作は多いので一冊だけ紹介。ほとんど読んでいないのでこれから読んでみたいと思います。

日本文化のゆくえ

日本文化のゆくえ

 

  

日本文化のゆくえ (岩波現代文庫)

日本文化のゆくえ (岩波現代文庫)

 

 この本の中で河合先生は佐藤学氏の音楽室のエピソードを紹介しています。次のリンクはその話を紹介したページ。佐藤学氏の思い出の先生の話。夢みたいな話だけども、物語の共有が伝わってくる話です。

http://www.geocities.co.jp/noboish/case/nobunrui/sato.html

 

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