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その日はミッキー・ローク同好会のA君とビル・マーレイの最近の動向について協議する予定だった。千日前の丸福珈琲で、ネットで集めた情報をひとしきり交換し、ビル・マーレイの老化スピードがはやすぎるのではないかと心配した。*1 ドリアン・グレイの肖像画のようにそのままの姿でいて欲しかったのである。
深煎りのコーヒーを飲んでもビル・マーレイの老化を防ぐ新しいアイデアを思いつく訳でもなく、話がそれ以上発展することはなかった。大倉陶園のカップ&ソーサーがやけに白く輝いて見える。*2 これこそ東京の輝き、オークラからのインビテーション。東京にでも遊びに行くか。A君に東京でのおすすめホテルを聞いてみた。
「ひとつしかないやん」得意げにA君。シャツの胸元にふたつの乳輪がほんのりと浮かびあがる。
愚問だった。ビル・マーレイ主演の『ロスト・イン・トランスレーション』。パークハイアット東京が舞台となる映画だ。ミッキー・ローク同好会はビル・マーレイ同好会でもあったのだ。
同好会の予定調和を乱す「ふつう」
近くの小さなバーに移動して『ロスト・イン・トランスレーション』を見ながらサントリー響(ひびき)をロックで飲んだ。ミッキー・ロークの映画を見るときはサントリーローヤル。ビル・マーレイの映画を見るときは響と相場は決まっていた。
「この映画、ふつうにいいよね」
「特別じゃなくて? これだけビルが出てるのもめずらしいよ」
「でもタイトルが長いな。同好会では呼びかたを変えてみるか。『東京マーレイブラボー』 なんてどう?」
「いいね。もうひとひねり欲しいな」
「じゃあ『桃尻からヨハンソン』」
ご存じのように『ロスト・イン・トランスレーション』はスカーレット・ヨハンソンの尻(しり)の大写しではじまる。映画のつかみを的確に表現している。
それよりも、同好会的にはビル・マーレイだけに言及するのが決まりなんだが。ビル・マーレイよりもスカーレット・ヨハンソンを見ているのではないかという疑問が浮かぶ。ビル・マーレイが出ずっぱりな作品なのに「ふつう」というのが怪しい。これはいけませんよ。
とりあえず同好会としては『ゴーストバスターズ』と『ライフ・アクアティック』をおすすめしておきたい。
女子の下品とおぼこの普遍性を語る
こなもんの濃霧がうっすらと漂ってきた。マスターが自分で食べるお好み焼きづくりに熱中している。チャームのうまい棒がしみる夜。ファイヤーキングにいれた響が桂花陳酒のようだ。映画ではシャーロットが桃色のパンツをはいて部屋をうろうろしている。
「このホテルに泊まるんだったら、女子はでかいパンツをもっていかなきゃ」
「下品だな」
「下品じゃないよ。シャーロットのおぼこい感じがこの映画ポイントなんだ」
シャーロット? これはいけない。また同好会のルールを犯している。A君はたたみかけるように語る。
この映画には下品なシーンが二ヶ所ある。アンナ・ファリスがシャーロットとその旦那の新婚カップルに近づいてきて言う。「ごめん、わたしのワキにおう?」 旦那は鼻をつまんでおどけたしぐさ。シャーロットは露骨に嫌な表情を見せる。もうひとつはバーで旦那や仲間たちといい雰囲気で飲んでいるシーン。またもやアンナ・ファリスが「聞いて、腸内洗浄しちゃった!」 すかさず席を立ちボブに歩みよるシャーロット。二人の距離は近づいていく。
このシーンがこの映画のきもである。この下品なシーンの挿入により他のシーンの清浄さが際立つ。ビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソンがピュアな世界を表現した映画。観客もおぼこになって心のなかで嫌がってみせる共犯関係。ほんとはワキのにおいや腸内洗浄なんてどうってことないんだけど。下品なシーンが毒となって清浄さを強制的につくりだしている。
パークハイアット東京の関係者は語る。『ロスト・イン・トランスレーション』を見て、世界からこのホテルに泊まりに来るゲストが絶えない。この映画がつくりだしたみずみずしい印象が地下水脈を通って世界中に浸透している。世界はわずかに清浄さを残していた。だからパークハイアット東京では下品なふるまいはタブー。このホテルに泊まるとき、下品なふるまいを見掛けたら、ひとりの女子として清純に顔をしかめてみせよう。本当はどす黒い心でアバズレにズレまくっていたのだとしても。
*
A君は思うところを語り、酔いつぶれてしまった。「シャーロットがTバックはいとったらこの映画は成立せんやろ…」 地元のTバック銀座と呼ばれる商店街で育ったA君。女子の下品とおぼこの狭間で引き裂かれて生きてきた。眠りながらもこの作品にこだわりをみせている。ふつうに良かったは深層ではかなりいいことを示していた。シャーロットに見出したおぼこ女子の元型。ふつうは特別を通り越して普遍につながり、神話の世界にまで達している。ビル・マーレイ同好会はあとかたもなく消えさっていた。
A君を「ゴミ箱」という名のバーに置き去りにし、家に帰って『ロスト・イン・トランスレーション』をもう一度見た。ボブ・ハリスがタクシーの中から新宿のイルミネーションの洪水を見ている。 シャーロットが高層階の客室から下方にひろがる新宿の風景を見ている。
今週のお題「ふつうに良かった映画」
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