人生の契機で、何度脱獄をしても、結局は檻の中に収監されてしまうように感じる時がある。その場合は、脱獄をあきらめて、囚われたままの状態で有効に生きる方法を模索することになる。これは、今の僕の考え方というか心境に近い。
『レッド・ドラコン』のエンディングで、社会が本当に合理的であるのならば、私を有効活用する方向に動くだろうと、収監されたレクターが語る。
実際、『羊たちの沈黙』では、警察は連続殺人犯のプロファイリングをレクター博士に頼む。警察に協力する最中、隙を見て博士は逃げてしまう。脱走後の『ハンニバル』では、捕えられたことが屈辱だったとクラリスに語る。囚われることは屈辱。
世の中は囚われなのだから、レクター博士のように、屈辱を感じつつも、有効に生きる方法を学ぶ必要がある。そのためには、レクター博士なみに頭脳を高度に発達させる必要がある。結局、頭を良くするしかないという、単純すぎるほどの結論。
副次的効果として、頭が良くなると、運がよくなるという現象がある。運が良くなれば、一生逃げられないと思っていた状況でも、博士のようにチャンスが訪れて、逃げきることもできる。
直接の因果関係ではあるが、博士の場合、頭が良いので警察に利用され、脱獄のチャンスが生まれた。博士の場合なら、仮に脱獄できなくても、屈辱を感じつつも、高機能で生きるだろうけれども。
事実的にも、頭が良くなれば、運が良くなると僕は考えている。またまた、単純すぎるほどの結論であるが、それがどんな状況に置かれていたとしても、勉強は無駄ではないし、勉強を続けた方がいいと考える理由。権力やお金のためではなく、純粋に頭を良くすること。その結果、運が良くなり、自由になること。
頭を良くするには、銀のスプーンを毎日磨き続けるような勉強方法もあるけれど、予定調和ではない脳領域への刺激が今のところ、僕にはあっている。だから、昔も今もインターネットは面白い。インターネットへの接触で、頭が良くなれば幸いである。インターネットで本当に頭が良くなるかと問われれば、それはどうだろうかと答える。
それでも、20年経っても使いこなせないインターネットの可能性に、答えがあるんじゃないかと考えている。こんなこと書いてるよといった記事を発見すると、その確信は強まる。やっぱり、今まで見たのとは違う景色を見てみたいよね。
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