東京の世田谷文学館で「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」が3月31日まで開催されている。大阪の本屋でも展覧会の公式カタログが売っていたので買ってみた。掲載された原画と寄せられたメッセージ。シンプルな表紙に反比例する切り貼り感あふれる情熱的な内容。
「岡崎京子展」開催 公式カタログには小沢健二さんのエッセイも - はてなニュース
公式カタログにあるオザケンの寄稿は "「みなさん」の話は禁句 " というタイトルでテイラー・スウィフト、マーケティング、『ヘルタースケルター』に触れている。普通かたられることのない中の人からのマーケティング論。作品が成立しているみなさんとの綱渡り的なバランス。みなさまに語りつつ岡崎京子に宛てた内容。小沢健二が岡崎京子と共有していたことなんだろうと思う。
比較的早い時期から岡崎京子の主な作品は読んできたと思う。展覧会に行く前に公式カタログを見ながら主要作品のふりかえり。15歳で死にそこなった少女(+ 少年)がどう生き抜いていくのか、そういう世界が描かれていると思っていた。以下は、いちフォロワーとして感じてきた個人的感想。
『セカンドバージン』(連載:1985、単行本:1986)
漫画アクションの連載でこの作品を知った。ブライアン・フェリーおじさんの母キミコへ片想いを軸にストーリーは展開。フェリーおじさんがB級への関心を高めていたツボにはまった。コミックの登場人物がリアルタイムの風俗とリンクしているのが新鮮だった。
母子家庭という設定に違和感を感じた記憶がある。まだ家族構成のコンプリートが信じられていた時代。セカンドバージンのラストでは家族という概念に新しい変化を感じさせる終り方となっている。
インターネットのない時代だったので地方都市では入手できる情報量はしれていた。本屋で岡崎京子の単行本を見つけると買っていた。
『くちびるから散弾銃』(連載:1987~、単行本:1989~)
女性誌に連載された作品。23歳の女子三人組がただしゃべっている漫画。女子向けだけに良く分らない内容も多いのだけれども、当時のキーワードをふんだんに引用しながらの消費ライフを徹底的に肯定したような明るい作品だった。
読んでいて、生きることへの明るい肯定感は何かの裏返しであることが伝わってきた。あとがきの一節に表現されている。
15歳のときに自殺できなかった女の子たちがヒマツブシに生きて23歳になってもまだ生きてて、たぶんまだ死ぬまで生きそう。
だったら仲良しでたまに集まって、ケーキお茶でぺちゃくちゃ、おしゃべり。そんなのも悪くないかも。
死ねなかったものたちのくたばるまでのおしゃべりはつづく。絶望を裏返したら明るい諦めになるしかないのでは? 岡崎京子から提案のように聞こえた。『くちびるから散弾銃』的世界観。死にそこなったくそサバイバーたちが現実世界をどう生き抜いていけばよいのかが表現されていると思った。
公式カタログには、「くちびるから散弾銃2015」という座談会が掲載されている。
『ジオラマボーイ バノラマガール』(連載:1988、単行本:1989)
ハルコとケンイチのちょっと変わったラブストーリー。舞台はサザエさん的お茶の間から東京近郊のマンションへ。『セカンドバージン』に見られた家族への信頼性はなくなっている。作品にはデートクラブを経営する小学生、ひきこもり少女が登場し、現実社会とのリンクがより強くなる。
「でもこの夏はハルコさんたちのお陰でたのしかったな」
「プールとか行っただけじゃん」
「世の中にはまだたのしいことってあるんだなって」
「 (世の中には程度のひくいことでシアワセになれる不幸なヒトがいるもんだ) 」
ひきこもり少女まゆ子のセリフ。バブル絶頂の時代にひとりいい味をだしている。「15歳のときに自殺できなかった女の子たち」がなにものかになろうなんてことは考えにくい。作品的にはハルコの自己変革でエンディング。この意識革命がいいのかわるいのか以後の作品に何らかの変化が予想された。
『pink』(連載:1989、単行本:1989)
シアワセじゃなきゃ死んだほうがまし
期待値の高い普通のOL兼ホテトル嬢のユミちゃん登場。ユミちゃんの飼うワニは反目しあう継母の手下により殺されてしまう。ラストでハルヲは交通事故にあい死んでしまう。ユミちゃんはそれを知らない。
途中でワニが殺されることでアンハッピーになり、最後にハルヲの事故でもう一回。宙づりにされたまま物語は終わる。それが何を意味してどう理解すれば良いのやら。
『pink』では明るい悲惨さ、というか悲惨な明るさ、というのを描こうと思った。
(ばなな新聞、1991年)
読んだときは『くちびるから散弾銃』的世界観は失われたように感じた。1989年、昭和から平成になっていた。ワニと『pink』を並べてからフォロワーのひとりは外の世界を見ることにした。描かれているテーマは同じことなのかも知れないけれど読んだ当時は分からなかった。
以下の作品は語られることも多いので簡単に。『pink』よりあとの作品は家の外で読んだ記憶がある。
『東京ガールズブラボー』(連載:1990~1992、単行本:1993)
岡崎京子による1980年代へのオマージュ。三人組による『くちびるから散弾銃』の前日譚。80年代的ではない丸玉玉子のインパクトが強かった。前日譚として読んでしまったので80年代を考えながらもう一度ゆっくり読んでみたい作品。
いつまでもこんな風でいたいな
いつまでも
いつまでも
こうしていたいな
( 真冬のアスファルトにペタッとうつぶせるなっちゃんは後日譚で不倫番長としてたくましく生きていたのであった )
『リバーズ・エッジ』(連載:1993~1994、単行本:1994)
すんなり読めた。あとでじわじわこの作品世界が自分のなかにもひろがっていった。読んだときは『くちびるから散弾銃』のあとがきの「15歳のときに自殺できなかった」少年少女たちの高校時のエピソードが描かれているのかなと思った。
大丈夫よ
あの人は何でも関係ないんだもん
そうでしょ?
だからあたし達にも平気だったんだもん
ウイリアム・ギブソンの詩にある「平坦な戦場」は繰り返し再生産され、不可視の内戦として絶えず描きなおされる必要があるんだろう。『へルタースケルター』にも登場する「15歳のときに自殺できなかった女の子」の事例、見本、代表のような吉川こずえ。公式カタログのいち頁めには吉川こずえの「……ざけんじゃねえよって 」のセリフがコラージュされている。ざけんじゃねえよって。
『ヘルタースケルター』(連載:1995~1996、単行本:2003)
単行本が出てから読んだ。 " to be continued "のラスト4ページ がうれしい。生きることへの明るい肯定感。『ヘルタースケルター』が最高傑作で代表作と思う。
ラストで 何に対しても無表情で決しておどろくことはなかった吉川こずえがりりこを見てまさかの驚愕の表情。これまでの岡崎作品のさまざまなものがシンクロする最高のエンディング。 *1
死にながら生きていること。
そしてそこからの再生のレッスン。
(「ある過剰とある欠如としての」『ユリイカ』1994年12月臨時増刊号)
『チワワちゃん』(連載:1994~1995、単行本:1996)
チワワちゃんを含む短編集。「チワワちゃん」は、人が死んでからあいつはあーだったこーだったとあれこれ考えだす話。あれはなんでだろう。喪失感を埋め合わせるようにその人の断片を寄せ集めるんだけれども、たぶんそれはうまくいかない。輝きは増すんだけれどもうまくいかない。死んでしまっているから。
普遍性というか違う次元のクオリティで描かれた作品。この単行本に含まれる「チョコレートマーブルちゃん」も同じように象徴的だと思った。
*
公式カタログに記載された本人の言葉やよく知る人の文章を発表された作品の全体像とともにみると、岡崎京子とその作品に多様性が感じられ、読み方が一面的だったのかなとは思う。けれどもそういう視点で読んできてしまったので、そういう視点からの感想になる。初期の作品から死を意識して読んできた。
読んでない人におすすめ作品を5冊選ぶとすると、『くちびるから散弾銃』、『へルタースケルター』、『リバーズ・エッジ』、『pink』、『ジオラマボーイ パノラマガール』 好きな順に並べてみた。本当は、時系列で読むのが良く分かると思う。
正直、岡崎京子の作品に救われたと思う。サカエはいつもぼくのなかに生きているような気がする。
参照作品
関連記事
スポンサーリンク
*1: " to be continued "というベクトルを持ったままの完結。