アーキペラゴを探して

デニム、ヴィンテージ、旅、レビューのブログ

オール・アバウト・ユア・キャット

ギリシアの猫

外国の街並みを撮っている時、異国の猫にファインダーを向けてしまう時がある。知っている猫にあまりにも似ているからだ。新宮に向かう列車の中で『ネコはどうしてわがままか 』という本を読んだ。白浜を越えた所で本を閉じ、昔あった猫たちについて考えてみた。

 

猫は人知れない場所に死にに行くという通説があるが、僕はそれを信じてはいない。猫は人から見えないちょっとした死角で死ぬだけだ。帰宅すると家の100mぐらい先まで、毎夜迎えに来てくれる猫がいつのまにかいなくなり、ある晴れた休日にふと縁の下をのぞいてみる。静かに横たわっている亡骸をそっとなでたあと、縁の下から取り出して市役所の係に電話する。決められた手順のように同じことを何回も繰り返した。

 

今日のような秋の終りの夜、いつも迎えに来てくれる場所のアスファルトに血痕が散乱し、家の門まで続いていた。もうすべて分かってしまったが、縁の下をのぞくと、お気に入りの白い猫が口を開けてこときれていた。血糊で固まった毛並みをどうすることもできず、しゃがんだまま長い間動くことができなかった。もう年で弱っていたので車にはねられてしまったのだろう。

 

時は経ち、性格は違うが同じ血筋なのか、この地域に同じ姿の猫が生れてくる。時というものが止まったものであり、生きものが死ぬことがないならば、あの白猫とこの白猫はそっくりとか、この黒猫は一匹だと思ったけど実は双子で驚いたとか、そんな猫たちは多いので、猫のポーカーとか神経衰弱ができるのにと思う。消え去った猫たちの姿の中に、ファインダーの中で重なりあうイメージに、いのちのサイクルの不思議さを思う。